平安後期の太政大臣
藤原師長(1138年-1192年)は、歴史に詳しい人でないかぎり、名前は知られていないかもしれません。藤原師長は、藤原頼長の長男で、平安時代後期、太政大臣(朝廷の最高地位)の地位にあった公卿です(参考URL:wikipedia)。琵琶の名手
太政大臣を解任された藤原師長は、「雅楽の歴史においては、源博雅と並ぶ平安時代を代表する音楽家」とwikipediaにもあるように、政治家としてよりも、琵琶の名手として知られます。妙音院という雅号もあります。
平清盛のクーデターに巻き込まれる
藤原師長は、平清盛が起こした治承三年(1179年)のクーデターで、反平氏勢力の一員として、太政大臣を解任され、井戸田の地に流刑にされました。平清盛は、「平氏にあらずんば人にあらず」で知られる武将です。治承三年のクーデターとは、後白河法皇と対立した平清盛が、武力でもって京都を制圧し、後白河法皇を幽閉し、安徳天皇を擁立して、政権を握った事件です。
足跡
瑞穂区井戸田町
名古屋市瑞穂区井戸田町に、藤原師長の伝説が残っています。これについては、こちらの藤原師長の伝説が残る井戸田の土地にて解説しています。小袖懸け松
名古屋テレビ塔の南のセントラルパークに、小袖懸け松と呼ばれる伝説が残っています。槐女は、師長と別れて帰途につく途中に、この地の古い松に小袖をかけていったそうです。参考URL:小袖懸けの松 - 新、愛知限定歴史レポ
西区の清音寺
さて、師長が京都に戻る際、「横江槐女(かいじょ)」という村長の娘が、現在の西枇杷島町のあたりまで、見送りについてきました。師長は、槐女に薬師如来と白菊の琵琶を手渡し別れたとのことです。「四つの緒の しらべもたえて 三瀬川 沈みはてぬと 君に伝えよ 」
この歌を、悲しみにくれた槐女が琵琶に書き付けて、近くの池に身投げをした、という伝説があります。 後になって師長は、槐女の菩提のために、この地を枇杷島と名付け、清音寺を建立したといわれます。 寺号の「清音寺」は娘の法号の「清音院松月麗照大姉」からとられています(「瑞穂区」の歴史より)。
西区には、かつて白菊町、琵琶里町という師長ゆかりの地名がありましたが、昭和62年の住居表示変更で消滅したとのことです。
参考URL:東枇杷島 清音寺 - 新、愛知限定歴史レポ
白菊の琵琶
清音寺には、住職が模作したといわれる「白菊の琵琶」が江戸時代にあったということです。 清音寺から尾張藩士が手に入れ、尾張徳川家のもとにあったものが、150年前に江戸に移されたまま、行方が分からなくなっていましたが、最近になって宮内庁の丸尚蔵館で発見され、徳川美術館に里帰りすることになったとのニュースが2010年の中日新聞にありました。別の説
横江槐女は、師長との別れの後、出家して、井戸田の近くの近くにお寺を建立し、90歳まで長生きをした、という説もあります。関連作品
能
「玄象」とも書かれます。藤原師長が音楽を志して南宋に旅立つ途中、摂津国須磨の浦で村上天皇の霊に押し止められたという逸話が題材となった能作品です。
関連リンク:絃上 (能)
オペラ作品
ネットで調べたら、琵琶白菊物語というオペラ作品もあるようです。興味深いですね。
関連リンク:名古屋オペラ協会 《琵琶白菊物語》