名古屋人も意外と知らない
鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147年-1199年)は、名古屋(尾張)生まれという説が有力です。 尾張生まれの武将といえば、信長や秀吉が有名です。頼朝については、名古屋人にも意外と知られていないようです。熱田神宮の大宮司
源頼朝の母親は、熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘で、名は「由良御前」といいます。由良御前は、源義朝の正室です。由良御前は、出産のために熱田神宮のある名古屋へ里帰りし、熱田神宮の隣にある「誓願寺」で源頼朝が誕生した、とされています。誓願寺
誓願寺は、熱田神宮のすぐ西隣にあります。ここが源頼朝の出生地とされる理由は、平安時代には千秋家の下屋敷があったのがその理由とのことです(藤原季範以降、千秋家を名乗る)。
古くは、この場所に熱田神宮の大宮司藤原氏の邸宅がありました。 頼朝公誕生旧地と書かれた門の隣の石柱は明治時代のもの。
池禅尼による助命嘆願
池禅尼は、平清盛の継母に当たる人物です。平治の乱で源義朝が平清盛に敗れた後、源頼朝も13歳で捕らえられます。その際に、清盛に対して、池禅尼は断食をしてまで頼朝の命乞いをしたとされます。これにより、頼朝は、伊豆への流罪に減刑されます。「瑞穂区の歴史」という本によると、池禅尼は、大宮司・藤原季範の叔母に当たり、池殿屋敷は、千秋家の下屋敷の隣にあったということです。頼朝の命乞いの背景には、熱田神宮の大宮司家の働きかけもあったのではないか、といわれています(日本史における重要な事件ですが、ここら辺の事情は複雑ですので、詳細は省きます)。
熱田神宮の大宮司家と源頼朝、足利家
源頼朝
ところで、熱田神宮の大宮司家は、藤原季範の母方の尾張氏が代々つとめていました。 尾張氏は、古墳時代からの有力氏族です。熱田神宮の近くの断夫山古墳や白鳥古墳は、尾張氏の墳墓とされます。継体天皇に嫁入りした目子媛など天皇家とのつながりも深く、非常に由緒のある家柄といえます。頼朝が嫡男として扱われた理由
この家柄により、源頼朝は、二人の兄がいたにも関わらず、源氏の嫡男として扱われたようです。この点から見ても、源頼朝は名古屋の地と縁が深いといえそうです。足利家
足利家の二代目・義兼も、母方が熱田神宮の大宮司家で、源頼朝とは従姉妹にあたります。足利将軍家とのつながりもあるということです。生誕地とされるもう一つの場所
源頼朝の生誕地とされる場所は、名古屋市内には誓願寺の他に、もう一つあります。熱田神宮の東へ数キロほどの、瑞穂区新瑞橋の近くにある龍泉寺というお寺です。参考URL:源頼朝の生誕地を龍泉寺に訪ねる
一、名古屋人は対等の関係を結ぶという概念がないので、常に我々が優越する立場であることを認識させるよう心がけること。
一、名古屋人には絶対に謝罪してはいけない。勝ったと誤認し居丈高になる気質があり、後日に至るまで金品を強請させ、惨禍を招く原因となる。
一、名古屋人は恩義に感じるということがないため、恩は掛け捨てと思い情を移さぬこと。
一、名古屋人は虚言を弄する習癖があるので絶対に信用しないこと。公に証言させる場合は必ず証拠を提示させること。
一、名古屋人には日常的に叱責し決して賞賛しないこと。
一、名古屋人を叱責する際は証拠を提示し、怒声大音声をもって喝破せよ。
一、名古屋人は正当なる措置であっても利害を損ねた場合、恨みに思い後日徒党を組み復讐争議する習癖があるので、最寄の官公署特に警察司法との密接な関係を示し威嚇すること。
一、名古屋人とは会見する場合相手方より大人数で臨む事。
一、名古屋人との争議に際しては弁護士等権威ある称号を詐称せる者を同道させる場合がある。権威称号を称する同道者については関係各所への身元照会を徹底すべし。