曹洞宗のお寺
名古屋市天白区島田にある地蔵寺は、1442年に永平寺からやってきた樵山和尚(しょうざんおしょう)が建立した曹洞宗のお寺です。樵山和尚は、南北朝時代の守護大名・斯波高経の孫にあたります。
毛替地蔵
地蔵寺には、毛替地蔵と呼ばれる大きな地蔵尊が別棟に置かれています。この毛替地蔵は、恵心僧都・源信(942〜1017)の作とされます。
石柱には、毛替地蔵大菩薩と書かれている。
本尊
地蔵寺の本尊は別にあります。桶狭間の合戦の余波で、寺が今川義元軍の兵火にかかって焼かれたとき、お堂のあった林の中から弥陀如来の像が光明を放っていたとのことです。この弥陀如来は定朝の作と伝えられています。公式サイト:島田地蔵寺
熊坂長範の伝説
三大盗賊
熊坂長範は、平安時代の伝説上の盗賊で、石川五右衛門、鼠小僧と並ぶ三大盗賊です。 源義経を題材にした物語に登場してきます。盗んだ馬の毛色を変えてもらう
熊坂長範は、金持ちから盗んだ馬を、市場で売るために、毛の色を変えてもらうよう、島田のお地蔵さんにお願いすると、一夜にして馬の毛色が変わりました。熊坂長範は、馬を盗んでは地蔵さんに毛色を変えてもらって、市場で売り、儲けたお金を暮らしに困った人に分け与えていたということです。毛替地蔵
「馬の毛色をかえれたのだから、人間の髪の毛も何とかなるのでは」ということで、それ以来、島田のお地蔵さんは「毛替地蔵」と呼ばれるようになり、美しい髪を願う人や、髪に悩む人たちの信仰を集めるようになったということです。全国的に珍しい
髪の悩みについての信仰は、全国的にも珍しいようです。 江戸時代に描かれたと思われる熊坂長範伝説を描いた絵がお堂の中に飾られていたので、古い信仰のようです。 もう一つ興味深いのは、お地蔵さんが泥棒の味方をしたことです。熊坂長範はその後出家して坊さんになったとか。仏教らしい懐の深い言い伝えだと思います。二村山にも残る
熊坂長範の伝説は、「身代わり地蔵」の言い伝えとして、緑区と豊明市にある二村山にも残っています。二村山も島田も、古代は鎌倉街道沿いになっていて、その時代の山賊の話が元になったのかもしれません。島田の地蔵信仰は古くから
地蔵寺は1442年の創建ですが、熊坂長範の伝説は平安時代です。この地には、地蔵寺が出来る前から、地蔵信仰があったようです。現在の天白小学校の近くに地蔵尊があったとのこと。イベント
お祭り
1570年に日照りが続いた際に、地蔵尊にお願いをして乗り越えたことにちなむお祭りです。これにより毛替地蔵は別名、雨降地蔵とも呼ばれます。毛替地蔵尊大祭「ちょうちん祭り」は、夜店もでて大いに賑わいます。金太郎稲荷尊天大祭という厄除祈願もあります。尾張六地蔵
島田・地蔵寺は、尾張六地蔵の五番目札所にあたります。 「六地蔵巡り」という風習は、古くからありますが、尾張六地蔵巡りが、いつの時代から始まったものかは分からないとのことです。「尾張名所図会」にも登場し、島田・地蔵寺の建物内には、安政二年(1855年)と書かれた立派な奉納額がかかっていましたので、それ以前からあると考えられます。- 第一番・・・長光寺(稲沢市六角堂東町)
- 第二番・・・清浄寺(名古屋市中区大須)
- 第三番・・・地蔵院(名古屋市南区呼続町)
- 第四番・・・如意寺(名古屋市緑区鳴海町作町)
- 第五番・・・地蔵寺(名古屋市天白区島田)
- 第六番・・・芳珠寺(名古屋市千種区今池)
斯波氏とのつながり
樵山和尚と斯波氏
地蔵寺を建立した樵山和尚は、元は鐘崎式部太夫源種国という武士でした。「天白区の歴史」という本によると、樵山和尚の祖父は、南北朝時代の武将で有力な守護大名の斯波高経(1305年-1367年)。斯波氏は足利一族で、三管領家で将軍家と同格ともいわれた家柄です。足利尾張家とも呼ばれます。斯波高経は、足利尊氏に従って鎌倉幕府とたたかい、新田義貞を討っています。和尚の父は、斯波義種で、信濃や加賀の守護大名の斯波義種。母は熱田大宮司の千秋家出身です。
熱田大宮司家とのつながり
種国は、戦場で負傷したことが原因で、出家し、永平寺に入ります。その後、母の菩提のために、熱田神宮の大宮司家・千秋家の招きもあって島田に地蔵寺をかまえたとのことです。こうしてみると、樵山和尚は、足利家につながる名門の出身で尾張と縁の深い人物といえます。
島田神社、島田城跡
地蔵寺のお隣にある島田神社は、斯波高経が崇敬したということです。
また、近くには斯波高経の末流「牧氏」が城主をつとめた島田城址があります。 尾張守護の役所は稲沢の方にあったということですが、斯波高経が、鎌倉街道の要所にあたる島田の地に城をつくり、一族の牧氏守らせたということです。
地蔵寺は、牧家の菩提寺にもなっているようです。
参考URL:牧氏の歴史、No5島田城と地蔵寺
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