古代〜奈良時代
名古屋市天白区島田は、古くから開けていた土地です。 平安時代以前の名古屋市内には、年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる干潟が広がっており、熱田神宮から瑞穂区の新瑞橋周辺、天白区の植田、島田、野並を結ぶルートが、あゆち潟の沿岸になっていました。そのルートが、古代の東海道(のちに鎌倉街道)となっていたようです。
周辺の史跡
- 地蔵寺
- 島田神社
- 島田城址
島田周辺に残る地名

上記のバス停の写真にあるように、島田周辺には、年魚市潟(あゆち潟)に由来する地名が残っています。干潟だった部分に天白川が流れているようです。
島田氏と菅原道真
古代氏族名鑑である「新撰姓氏録(815年)」に、神八井耳命の末裔とされる島田氏の名前が出てきます。この島田氏の末裔には、平安時代前期に活躍した菅原道真の師「島田忠臣」やその弟で菅原道真の詩友「島田良臣」、「島田宣来子」「島田清田」などの名前も見えます。平安時代
島田の交差点にある地蔵寺には、平安時代の盗賊「熊坂長範」による毛替地蔵の伝説があります。当時、島田地蔵寺はまだ建立されていませんでしたが、地蔵信仰はこの地にあったようです。室町時代から戦国時代
南北朝時代の武将で、有力な守護大名の斯波高経(1305年-1367年)は、一族の牧氏に、島田の地を守らせました。斯波氏は、足利宗家につながる名門です。斯波高経の孫の樵山和尚が、島田地蔵寺を建立しました。戦国時代になり、桶狭間の合戦の際に、島田地蔵寺も戦火に巻き込まれました。江戸時代以降
年魚市潟は次第に陸化し、天白川となっています。 天白川の流域は洪水にたびたび見舞われ、そのたびに川筋を変えたようです。江戸時代には、植田の村落やお寺が、水害から逃れるため、稲葉山公園のふもとに移動しています。付近の史跡
地蔵寺
島田・地蔵寺については、こちらの熊坂長範の伝説が残る島田・地蔵寺で紹介しています。
島田神社
島田神社の由来記によると、古来、島田城の鬼門にあたるこの地には熊野権現があり、島田城の守護として斯波高経の崇敬があったとのことです。明治時代に入ってから、政府による神仏分離政策によって地蔵寺と分離されたようです。
島田天神社
島田神社の境内には、菅原道真を祭る島田天神社もあります。写真は鷽替え(うそかえ)神事の石像。
「島田忠臣」と関連があるのでしょうか。
島田城址
築城の時代は不明ですが、斯波高経が鎌倉街道の要所として、ここに城を築かせ、一族の牧氏に守らせた、と「天白区の歴史」という本にあります。現在は、小さな丘のみが残っています。
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