東海道沿いにある史跡
熱田区伝馬2丁目の東海道沿いに、比較的新しい建物があります。 その建物には、裁断橋跡や姥堂、都々逸発祥の碑など、いくつかの史跡がまとまってあります。- 裁断橋跡と擬宝珠
- 姥堂
- 都々逸発祥の碑

精進川に架けられた旧東海道の橋
新堀川のあるあたりに、かつて精進川が流れていました。精進川は明治に入ってから、運河として改修され新堀川となり、大正時代には、その跡はすでに埋め立てられていたとのこと。裁断橋は、精進川に架けられた旧東海道の橋で、尾張名所図会にものっています。古くは、1509年の『熱田講式』にも、その名が見られるといいます。たもとにある姥堂は、延文3年(1358年)の創建というので、その頃からあると思われます。
裁断橋桁石
裁断橋桁石が、建物の前に置かれています。 裁断橋は1622年にかけられたとのことですが、当時のものでしょうか。
擬宝珠の銘文
擬宝珠に彫られていた銘文によって、裁断橋は良く知られています。 豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐で亡くなった18歳の堀尾金助の33回忌(1622年)に、その母親が息子を最後に見送った東海道の裁断橋の架け替えを行ない、擬宝珠にその橋の由来を刻んだと伝えられています。

教科書にも登場
この銘文は、昭和に入ってから、学者や評論家の本で紹介されるようになりました。 名古屋市の小学校の教科書にも、この銘文が登場しています。日本女性三名文
現在では、成尋阿闍梨母、じゃがたら文と並んで、日本女性三名文としてあげられています。擬宝珠のの銘文は、江戸時代から、橋を渡る多くの人たちにも知られていたと思うと、たいへん感慨深いものがあります。
擬宝珠の実物
裁断橋の擬宝珠の実物は、名古屋市博物館の「尾張の常設展」で展示されています。
姥堂
姥堂(うばどう)は、時宗の寺院で、裁断橋跡と同じ建物の中にあります。 時宗四条派・円福寺の末寺で、1358年の創建とのことです。看板の解説によれば、本尊の姥像は、熱田神宮にあったもので、奪衣婆という説や、ヤマトタケルの母、あるいはミヤズヒメではないか、とも云われます。


大正時代の写真
大正時代の姥堂と裁断橋の写真が看板に掲載されています。
都々逸発祥の碑
裁断橋跡の右隣に、「都々逸発祥の碑」の石碑もあります。 都々逸とは、江戸末期に、都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された口語による七・七・七・五の歌です。こちらの解説によれば、寛政12年(1800年)、宮宿に開店した鶏飯屋という茶屋に、お亀とお仲という女中がいて、「ドドイツ・ドイドイ」という唄で人気になったのがルーツだそうです。

場所
名古屋市熱田区伝馬2-5-19大きな地図で見る
更新情報
- 2014-02-14