頼朝や信長が行き来した道
中世の東海道ともいえる「鎌倉街道(京・鎌倉往還道)」は、名古屋市内にもわずかに痕跡があります。古くは源氏の武将が、戦国時代には信長らが行き来した街道です。名古屋周辺は萱津、熱田、鳴海、沓掛
125里63宿の行程のうち、名古屋市周辺には、萱津(あま市)、熱田(熱田区)、鳴海(緑区)、沓掛(豊明市)の4宿があります。「なごやの鎌倉街道をさがす 池田誠一 (著)」では、市内を通る鎌倉街道のルートを推定して、その場所を訪ねています。書籍情報
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【詳細】
なごやの鎌倉街道をさがす (爽BOOKS) 池田 誠一 (著) 単行本: 157ページ 出版社: 風媒社 (2012/04) |
鳴海潟を通るルート
鎌倉時代には、島田より南の天白川流域には「鳴海潟(さらに古い呼称は「あゆち潟」)」が広がっていました。笠寺台地は海に浮かんだ島で、「松巨島」と呼ばれていました。鎌倉街道を行き交う旅人は、干潮時になると干潟を歩いて「松巨島」へ渡って対岸を目指し、満潮時は野並や島田方面へ大きく迂回したとのことです。「下の道」と「上の道」
干潟の中の道を「下の道」、迂回路を「上の道」と呼んでおり、鎌倉街道はルートが複数があったことになります。また「鳴海潟」は時代によって範囲を変えており、それに伴い鎌倉街道もルートが大きく変わっています。ルートの推定が困難な理由
このように、鎌倉街道は中世においてさえルートが変わっているので、ルートの推定が難しくなっています。江戸時代には、すでに分からなくなっていたとのこと。紀行文や古歌も頼りに探す
紀行文や古歌も手がかりになります。これらには「萱津(あま市)」や「二村山(豊明市)」などの地名が良く登場し、従って鎌倉街道はこの2点の結んだ内側を通ったことは間違いないと判明しています。また、宿のあった鳴海や平安時代の伝承が色濃く残る井戸田なども通過地として間違いないと考えられます。古代の東海道
という次第で、鎌倉街道の跡地を探すのは手間のかかる作業で、「なごやの鎌倉街道をさがす」を一読しただけでは全貌が浮かんできませんでしたが、見慣れた土地がたくさん出てきており、また、「鎌倉街道」以前の古代の東海道の跡地の推定もあったりして興味深く読むことができました。