桶狭間の合戦の概略
27歳の織田信長が尾張地域を制覇してまもない永禄三年(1560年)の6月12日(※旧暦では5月19日になります)。駿府の有力武将の今川義元が尾張に向かって進軍してきました。
今川勢力は豊明市まで達していた
この頃、三河以西の今川勢力は、沓掛城(愛知県豊明市沓掛町)にまで達していました。織田信長の立てこもる清洲城(愛知県清須市一場)まで、ほとんど目と鼻の先といえます。徳川家康が火蓋を切る
緑区の大高城には、今川方についている松平元康(徳川家康)がおり、その家康の勢力によって、信長方の丸根砦、鷲津砦が落とされます。これによって桶狭間の合戦と呼ばれる戦いの火蓋が切られます。敦盛を舞い、清洲城を出る
清洲城の織田信長は、今川義元の接近に無視を決め込んでいました。夜明け前、砦の陥落の報告を聞くと、幸若舞「敦盛」を舞い、出陣の身支度を整え、200人とも言われるわずかな軍勢とともに清洲城を出陣しました。作戦会議では、家臣団は篭城を主張したとのことですが、信長はこれを無視しました。
10倍の兵力差
向かう先は、今川義元の本陣のある桶狭間ですが、その前に、祈願をしつつ軍勢を集めるために熱田神宮へ寄っています。今川義元の兵力は25000〜45000と諸説あります。一方、織田信長は清洲城を出たときにはわずかな軍勢しか従っておらず、最終的に善照寺砦にたどり着いたときには2000〜3000の兵力だったといわれます。今川義元は、丸根砦、鷲津砦が陥落したことに気をよくしたのか、「田楽狭間」と呼ばれる場所で休息を取ったとのことです。梅雨の雨が強まったところで、信長の軍勢が急襲をかけました。
以上が桶狭間の合戦の背景の概略です。
地図
今川・織田両陣営の進軍ルート(想定)はこちらです。広大なエリア
古戦場の関連スポットめぐりは、広大なエリアになります。急ぎ足で巡っても、丸一日がかりになります。 数回に分けて巡るのがオススメです。また多くのポイントが宅地の中にあり、場所が分かりにくいため、地図が必要です。 Googleマップとスマホの位置情報機能などを使って巡るのがオススメです。
史跡巡り
鳴海城と三つの砦
今回のスタート地点は、緑区の鳴海城と、それを囲む三つの砦からになりました。 信長は、今川義元方の鳴海城を包囲するように、丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三つの砦を築きました。・丹下砦
丹下砦は、光明寺と、成海神社の中間あたりに位置します。現存せず。参考
・善照寺砦
善照寺砦は、一辺50メートルの堀と土塁を巡らせた館だったとのことです。 「19ヶ条の折檻状」で知られる佐久間信盛が守りました。奇襲の際は、信長は善照寺砦に兵力を集めたとのこと。 敵方の鳴海城からは見えない位置にあったことが、奇襲の成功のポイントだったという説があります。 善照寺砦は現在は公園となっており、桶狭間山が見える高台となっています。
見晴らしがよい場所です。
信長の気分になれるかもしれません。
・中嶋砦
中嶋砦は、奇襲の際の最前線の砦で、扇川と手越川の合流地点の宅地にあります。 遺跡は現存せず、「中島城址」の石碑があります。参考
変哲のない場所にあります。
・鳴海城
別名「根古屋城(ねごやじょう)」。城主は、今川義元方の岡部元信。 桶狭間合戦では最後まで落城せず、交渉の結果、岡部元信は信長に城を明け渡しました。 遺跡は現存せず、現在は、鳴海城跡公園となっています。
参考>鳴海城(根古屋城)の場所と周辺の史跡
桶狭間界隈
高根山
高根山は、有松と桶狭間の中間にある丘陵。 今川の先遣隊・松井宗信が守っていました。一旦は織田方を撃退して、今川義元を油断させた、といわれます。参考
標高54メートルで、三つの砦や、名古屋駅の高層ビル群も見渡せます。
有松神社が山頂にあります。
釜ヶ谷
釜ヶ谷は、名古屋短期大学の敷地内にあります。 中島砦から進軍した信長が、突然の雨の中、今川本陣への突撃のチャンスを待っていた、とされます。とはいうものの、信長の進軍には諸説あります。
また信長は、桶狭間の勝利後、全軍を釜ヶ谷付近に集め、勝どきをあげた、とのことです。
七ツ塚
信長は、村人に命じて、七つの穴を掘って埋葬したと言われます。 この七ツ塚は、最近まで残っていた塚の一つだそうです。場所は宅地の中にあり、分かりにくいかもしれません。
瀬名氏俊陣地跡
義元の先発隊・瀬名氏俊は、この瀬名氏俊陣地跡に布陣したとのことです。いかにも古戦場という雰囲気がありました。
桶狭間神明社
瀬名氏俊は、布陣後、近くにある桶狭間神明社へ戦勝を祈願したとのことです。 瀬名氏俊が奉納した酒桶が保存されているそうです。 尾張藩第4代藩主徳川吉通の「お手植えの杉」もあります。参考
戦評の松
今川家家臣・瀬名氏俊は、松の下で軍議を開いたといわれます。 初代の松は伊勢湾台風で枯れ、現在の松は3代目とのことです。長福寺
長福寺は、今川義元の供養寺として知られます。 信長は、長福寺の境内で義元や家臣たちの首実検をしたとのことです。 今川義元・松井宗信の木像も保存されています。 落ち着いた佇まいのお寺です。参考
おけはざま山
おけはざま山は、今川義元の本陣があったとされる場所です。今川義元本陣跡
今川義元本陣跡の石碑があります。 緑区の桶狭間古戦場公園から坂道を登った途中にあります。 宅地の中にあるため、分かりにくいかもしれません。一帯は急勾配の坂道になっています。
桶狭間古戦場公園
緑区の桶狭間古戦場公園の一帯は、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が打ち取られた地といわれます。 織田信長と今川義元の銅像があるため、見つけやすい場所です。今川義元の墓や、ゆかりの史跡が点在しています。 ここを起点に巡ると良いと思います。
2つの古戦場跡地
豊明市と緑区
桶狭間には2つの古戦場跡地があり、今川義元が打ち取られたとされる場所は、豊明市にもあります。どちらが本物か論争が続いています。緑区のすぐ近く
豊明市といっても、緑区のすぐ近くですので、徒歩でも行ける距離です。 国指定史跡「桶狭間古戦場伝説地」となっており、江戸時代の石碑などが立ち並んでいます。詳しくはこちら>豊明市の桶狭間古戦場伝説地
桶狭間の合戦のその後
無謀な作戦?
無謀とも言われる信長の出撃ですが、清洲城に篭っていたとしても、兵力の差は歴然としています。桶狭間の狭い地域で合戦を行い、総大将と直接やりあうことが信長にとってもっとも勝算の高い作戦だったのではないかと考えられます。大きなピンチに際して最も的確な判断を行う信長の恐ろしさがここに見られるように思います。合戦の影響
桶狭間の合戦によって、織田信長は、尾張、三河地方から今川勢を追い出し、支配権を確立します。これが、信長の天下統一の足がかりとなりました。また、松平元康(徳川家康)も、松平氏の旧領の岡崎城に戻り、桶狭間の戦いから2年後に、信長と清洲同盟(織徳同盟)を締結することによって、今川氏から独立をすることになります。この清洲同盟は、信長にとっては、東の勢力を心配する必要がなくなったというメリットがありました。このように信長と家康に天下統一の手がかりを与えた桶狭間の合戦は、日本史上の大きな出来事と言えます。
参考:Wikipedia
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更新情報
- 2014-09-29