投稿日:2014年09月29日

27歳の織田信長が尾張地域を制覇してまもない永禄三年(1560年)の6月12日(※旧暦では5月19日になります)。駿府の有力武将の今川義元が尾張に向かって進軍してきました。

今川勢力は豊明市まで達していた

この頃、三河以西の今川勢力は、沓掛城(愛知県豊明市沓掛町)にまで達していました。織田信長の立てこもる清洲城(愛知県清須市一場)まで、ほとんど目と鼻の先といえます。

徳川家康が火蓋を切る

緑区の大高城には、今川方についている松平元康(徳川家康)がおり、その家康の勢力によって、信長方の丸根砦、鷲津砦が落とされます。これによって桶狭間の合戦と呼ばれる戦いの火蓋が切られます。

敦盛を舞い、清洲城を出る

清洲城の織田信長は、今川義元の接近に無視を決め込んでいました。夜明け前、砦の陥落の報告を聞くと、幸若舞「敦盛」を舞い、出陣の身支度を整え、200人とも言われるわずかな軍勢とともに清洲城を出陣しました。
作戦会議では、家臣団は篭城を主張したとのことですが、信長はこれを無視しました。

10倍の兵力差

向かう先は、今川義元の本陣のある桶狭間ですが、その前に、祈願をしつつ軍勢を集めるために熱田神宮へ寄っています。今川義元の兵力は25000〜45000と諸説あります。一方、織田信長は清洲城を出たときにはわずかな軍勢しか従っておらず、最終的に善照寺砦にたどり着いたときには2000〜3000の兵力だったといわれます。
今川義元は、丸根砦、鷲津砦が陥落したことに気をよくしたのか、「田楽狭間」と呼ばれる場所で休息を取ったとのことです。梅雨の雨が強まったところで、信長の軍勢が急襲をかけました。

無謀な作戦?

無謀とも言われる信長の出撃ですが、清洲城に篭っていたとしても、兵力の差は歴然としています。桶狭間の狭い地域で合戦を行い、総大将と直接やりあうことが信長にとってもっとも勝算の高い作戦だったのではないかと考えられます。大きなピンチに際して最も的確な判断を行う信長の恐ろしさがここに見られるように思います。

合戦の影響

桶狭間の合戦によって、織田信長は、尾張、三河地方から今川勢を追い出し、支配権を確立します。これが、信長の天下統一の足がかりとなりました。また、松平元康(徳川家康)も、松平氏の旧領の岡崎城に戻り、桶狭間の戦いから2年後に、信長と清洲同盟(織徳同盟)を締結することによって、今川氏から独立をすることになります。この清洲同盟は、信長にとっては、東の勢力を心配する必要がなくなったというメリットがありました。
このように信長と家康に天下統一の手がかりを与えた桶狭間の合戦は、日本史上の大きな出来事と言えます。 参考:Wikipedia

現在の桶狭間地区

現在では、緑区と豊明市にまたがって広がる桶狭間地域は、合戦にゆかりのある史跡があちこちに残っています。

2つの古戦場

桶狭間には、2つの古戦場跡地があります。名古屋市緑区と豊明市に分かれているので、どちらが本物かといった論争が昔からあるとのこと(参考:名古屋市緑区vs豊明市)。「古戦場まつり」を毎年、緑区と豊明市の両方で開催しています。

緑区

緑区のものは、「桶狭間古戦場公園」です。2010年に義元と信長の銅像が立てられました。義元の馬をつないだ「ねずの木」や、今川公水汲みの泉、首荒いの泉などがあります。

豊明市

一方、豊明市のものは、「桶狭間古戦場伝説地」と呼ばれる場所です。義元本陣跡の碑、義元の墓、古戦場資料館、古戦場址公園などがあります。1937年に国から史跡としての指定を受けたので、豊明市側は、こちらが本家と主張しているとのこと。

結論は?

どちらが本物かというと、資料が少ないので結論は出ないということです(「信長公記」「信長記」など、記述がまちまちとのこと)。ただ、数千〜万単位の軍勢がぶつかり合う合戦の場所は、物理的に広範囲に及ぶため、数キロも離れていない両者は、どちらも本物の古戦場跡地といえるとのことです。

観光スポットとして

桶狭間地区は、江戸時代の街並みが残る有松地区から徒歩圏内にあります。有松は、名古屋の代表的な伝統工芸品である有松絞りの生産地として全国に知られます。桶狭間地区と有松地区をあわせて観光スポットになっています。
posted by nagoyasanpo at 14:48 | Comment(1) | 有松・桶狭間
この記事へのコメント
詳しいブログですね!

参考にしたいです!!
Posted by 記者 夢見がち at 2014年11月21日 00:57
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