笠寺台地の南端
南区星崎周辺の史跡巡りです。星崎のあたりは、笠寺台地の南端にあたり、あゆち潟(鳴海潟)に突き出した岬になっていました。
- 星の宮神社、上知我麻社、下知我麻社
- 星崎城址
- 石神社
星の宮神社
星の宮神社は、星の神の「天津甕星(あまつみかぼし)」、またの名は天香香背男(あめのかがせお)をまつる神社です。日本神話では、この香香背男が「まつろわぬ神」として描かれているのは、星の神を信仰していた部族が大和王権に反抗していたためではないか、という説もあるそうです。
641年と1632年に隕石が落下
とすると、星の宮神社は、「まつろわぬ民」に由来するのか、とも思われますが、西暦641年の頃に、星崎付近に隕石が落ちたのが由来とも言われます。1632年にも、星崎付近に隕石が落下しています。このときの隕石は、現在、呼続神社に社宝として保存されています。付近に、星崎や星園など、星にちなむ地名があるのはそのためだと思われます。
なかなか興味深いエピソードです。
上知我麻社、下知我麻社
星の宮神社の奥の小道を進んでいくと、上知我麻社と下知我麻社がまつられています。「知我麻」は、「ちかま(千竈)」のことだと思われます。

製塩用の竈
千竈(ちかま)の名の由来は、付近に「千竈通り」という大きな通りがありますが、かつては製塩用の竈がたくさんあったことから、千竈となっているようです。十六夜日記の描写
13世紀の「十六夜日記(いざよいにっき)」の中に、鳴海潟について記した文章があり、そこには、「浜千鳥が飛び交い、海辺で漁をする人々の動きや古びた塩竃があちこちに立っている様が興味深い」などと描写されています。塩付街道のスタート地点
かつては、星崎周辺では、製塩が盛んで、星の宮神社が、塩付街道のスタート地点でもあったようです。 塩付街道は、この近辺で生産された塩を、信州方面へ運んだ道で、江戸時代以前からあるようです。
熱田神宮との関係
上知我麻社、下知我麻社は、鎌倉時代に熱田神宮にうつされており、星の宮神社にあるのが、元宮となります。また、上知我麻社には、日本武尊との逸話が有名な「宮簀媛命」や「建稲種命」の父親の「乎止与命」がまつられており、下知我麻社には、母親の「真敷刀俾命」がまつられています。『延喜式』神名帳には、両社とも名が記載されており、由来の古い神社であるようです。


星のマークの瓦や、大きなクスノキが印象的でした。
星崎城址
星の宮神社の近くに、笠寺小学校があり、そこが星崎城址となっています。立て札があるだけで、他は何もありません。星崎城の築城は不明ですが、鎌倉時代に承久の乱で活躍した山田重忠の城と伝えられています。

立て札には、「標高十メートルの大地先端に築かれた中世城郭である。築城年は不明であるが、戦国末には、織田氏に仕えた岡田重善、重孝が城主となった。江戸時代の地誌や絵図から、本丸、二の丸、侍屋敷、大手門などを備えた本格的な戦国城郭であったことがうかがえる」とあります。1588年廃城。
織田と今川の国境
南区の一帯は、城跡が点在しています。戦国時代には織田方と今川方の国境があった地域で、争いが繰り返されていた地域とのこと。かつて星の宮神社があった
ちなみに、ここは古くは星の宮神社のあった場所で、「乎止与命」が居住していたのではないか、と言われています。どうやら古代の尾張氏と縁のある場所のようです。石神社
本星崎駅の近くに、石神社があります。小さな神社ですが、ミシャグジと呼ばれる民俗信仰が残っています。

しゃもじ、石が置かれています。