投稿日:2020年09月25日

鎌倉街道が通る

天白区の野並と緑区の古鳴海の付近は、かつて鎌倉街道が通っていました。 鎌倉街道は、東海道より以前にあった、京都と鎌倉を結ぶ街道です。
このため、いくつかの史跡が残っています。

野並・古鳴海周辺の史跡

  • 鎌倉街道の「上の道」
  • 古鳴海八幡社、桂林寺(緑区)
  • 野並八劔社、梅野古墳群、山伏塚古墳(天白区)

鎌倉街道の3つのルート

南区・緑区付近を通る鎌倉街道には、「上の道」、「中の道」、「下の道」という3つのルートがあったようです。
野並、古鳴海付近を通る鎌倉街道は、「上の道」となります。

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「上の道」

鎌倉街道の「上の道」は、野並、古鳴海を過ぎると、嫁ケ茶屋、伝治山交差点、新海池方面へと続きます。 ただし正確な道筋は不明のようです。

野並八劔社の細道

野並八劔社の北側の門前の細道が、鎌倉街道の「上の道」とのことです。

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藤川

「藤川」は、古鳴海と野並の間を流れる小さな河川です。天白区と緑区の境界にもなっています。 戸笠池を水源として、鳴子池につながっています。

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年魚市潟の入り江

藤川の一帯は、戦国時代以前は、古鳴海と野並の間は年魚市潟(あゆちがた)の入り江になっていました。 「藤川」はその名残だと思われます。
かつては、干潮になるのを待って、入り江を渡ったようです。

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新海池方面へ

海抜地図を参考にすると、新海池や成海神社の付近で東に曲がり、相原郷の浄蓮寺、諏訪社の前を通り、二村山方面へ向かうルートだったかもしれません。

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鳴海宿はどこか

鎌倉街道には、東海道同様に、宿(しゅく)と呼ばれる宿場がありました。 その数63宿とされ、鳴海にも宿があったとされます。
旧鳴海宿の場所は不明ですが、古鳴海の周辺という説もあります。

参考>鳴海の台地...「宿」を追って

地名

古鳴海

江戸時代に東海道が整備され、鎌倉街道が使われなくなると、「鳴海村」も、鎌倉街道から東海道へ移りました。 古鳴海の地名は、その名残と言われます。

嫁ケ茶屋

古鳴海八幡社の近くにある「嫁ケ茶屋」の地名は、鎌倉街道にちなむ名前です。 天正年間、街道沿いに茶屋があり、その妻が美人だった、という逸話もあります。

古鳴海八幡社

古鳴海八幡社は、もともと神明社がありました。 八幡社は別の場所にあり、地図の「旧社地」の付近にありました。

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風格を感じる神社です。

神明社と八幡社を合祀

神明社と八幡社を明治42年に合祀して、現在の八幡社になったとのことです。

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石神社

古鳴海八幡社には、摂社として、石神社も祀られています。 由緒書の看板によれば、かつては山神社と呼ばれ、嫁ケ茶屋にあったようです。
石神社には、ヤマトタケルが鳴海から陸路で大高に向かう際、祈願したという伝承があります。

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山神社と呼ばれていたことから、山ノ神信仰が付近にあったようです。

桂林寺

八幡社の北側に桂林寺があります。 古くからある寺で、昭和17年(1942年)に薬師山桂林寺となる前は、薬師堂だったとのことです。

野並八劔社

野並八劔社は、熱田神宮の別宮・八剣宮(はっけんしゃ)から勧請した神社とのことです。 いつからあるのかは不明です。

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野並交差点の近くにあります。

熱田神宮の八剣宮とは

熱田神宮の八剣宮は、摂社の中でも別格の扱いとなっています。 武家の信仰が篤く、織田信長、徳川家康にもゆかりがあります。

千秋家の所領

かつて野並の一帯は、織田信長の時代以降は、熱田神宮の大宮司家・千秋家の所領でした。 野並八劔社の創建と関係があるのかもしれません。

鎌倉街道

前述のように、野並八劔社の北側の小道は鎌倉街道の跡のようです。

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梅野古墳群、山伏塚古墳

野並八劔社の近くには、梅野古墳群山伏塚古墳といった古墳があります。

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境内の盛り上がった部分に摂社が並んでいます。 この場所も、ひょっとしたら古墳かもしれません。

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posted by nagoyasanpo at 23:37 | Comment(0) | 鎌倉街道
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