鎌倉街道が通る
天白区の野並と緑区の古鳴海の付近は、かつて鎌倉街道が通っていました。 鎌倉街道は、東海道より以前にあった、京都と鎌倉を結ぶ街道です。このため、いくつかの史跡が残っています。
野並・古鳴海周辺の史跡
- 鎌倉街道の「上の道」
- 古鳴海八幡社、桂林寺(緑区)
- 野並八劔社、梅野古墳群、山伏塚古墳(天白区)
鎌倉街道の3つのルート
南区・緑区付近を通る鎌倉街道には、「上の道」、「中の道」、「下の道」という3つのルートがあったようです。野並、古鳴海付近を通る鎌倉街道は、「上の道」となります。

「上の道」
鎌倉街道の「上の道」は、野並、古鳴海を過ぎると、嫁ケ茶屋、伝治山交差点、新海池方面へと続きます。 ただし正確な道筋は不明のようです。野並八劔社の細道
野並八劔社の北側の門前の細道が、鎌倉街道の「上の道」とのことです。
藤川
「藤川」は、古鳴海と野並の間を流れる小さな河川です。天白区と緑区の境界にもなっています。 戸笠池を水源として、鳴子池につながっています。
年魚市潟の入り江
藤川の一帯は、戦国時代以前は、古鳴海と野並の間は年魚市潟(あゆちがた)の入り江になっていました。 「藤川」はその名残だと思われます。かつては、干潮になるのを待って、入り江を渡ったようです。

新海池方面へ
海抜地図を参考にすると、新海池や成海神社の付近で東に曲がり、相原郷の浄蓮寺、諏訪社の前を通り、二村山方面へ向かうルートだったかもしれません。
鳴海宿はどこか
鎌倉街道には、東海道同様に、宿(しゅく)と呼ばれる宿場がありました。 その数63宿とされ、鳴海にも宿があったとされます。旧鳴海宿の場所は不明ですが、古鳴海の周辺という説もあります。
参考>鳴海の台地...「宿」を追って
地名
古鳴海
江戸時代に東海道が整備され、鎌倉街道が使われなくなると、「鳴海村」も、鎌倉街道から東海道へ移りました。 古鳴海の地名は、その名残と言われます。嫁ケ茶屋
古鳴海八幡社の近くにある「嫁ケ茶屋」の地名は、鎌倉街道にちなむ名前です。 天正年間、街道沿いに茶屋があり、その妻が美人だった、という逸話もあります。古鳴海八幡社
古鳴海八幡社は、もともと神明社がありました。 八幡社は別の場所にあり、地図の「旧社地」の付近にありました。
風格を感じる神社です。
神明社と八幡社を合祀
神明社と八幡社を明治42年に合祀して、現在の八幡社になったとのことです。
石神社
古鳴海八幡社には、摂社として、石神社も祀られています。 由緒書の看板によれば、かつては山神社と呼ばれ、嫁ケ茶屋にあったようです。石神社には、ヤマトタケルが鳴海から陸路で大高に向かう際、祈願したという伝承があります。


山神社と呼ばれていたことから、山ノ神信仰が付近にあったようです。
桂林寺
八幡社の北側に桂林寺があります。 古くからある寺で、昭和17年(1942年)に薬師山桂林寺となる前は、薬師堂だったとのことです。野並八劔社
野並八劔社は、熱田神宮の別宮・八剣宮(はっけんしゃ)から勧請した神社とのことです。 いつからあるのかは不明です。

野並交差点の近くにあります。
熱田神宮の八剣宮とは
熱田神宮の八剣宮は、摂社の中でも別格の扱いとなっています。 武家の信仰が篤く、織田信長、徳川家康にもゆかりがあります。千秋家の所領
かつて野並の一帯は、織田信長の時代以降は、熱田神宮の大宮司家・千秋家の所領でした。 野並八劔社の創建と関係があるのかもしれません。鎌倉街道
前述のように、野並八劔社の北側の小道は鎌倉街道の跡のようです。
梅野古墳群、山伏塚古墳
野並八劔社の近くには、梅野古墳群、山伏塚古墳といった古墳があります。
境内の盛り上がった部分に摂社が並んでいます。 この場所も、ひょっとしたら古墳かもしれません。
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