精進川
かつては精進川が、東海道と交差するように流れていました。 精進川には裁断橋がかかっており、その橋桁石などが残っています。 熱田神宮の参拝者は、精進川で禊をしたそうです。新堀川の名称いn
精進川は、明治43年(1910)に運河に改修され、新堀川と呼ばれるようになりました。
明治時代の地図と比較すると、旧精進川と新堀川の流域の違いが分かります。
旧精進川周辺の史跡

- 伝馬3丁目の神明社
- 伝馬2丁目の熱田社
- 鈴之御前社
- 徳川家康幼時幽居地跡
伝馬3丁目の神明社
熱田区内には神明社がいくつかあります。 伝馬3丁目にも、国道1号線と旧東海道の間に神明社があります。
お日待碑
神明社は、かつては天道社と呼ばれていました。文禄5年(1596年)の銘がある「お日待(ひまち)碑」が、社殿の下に埋められているそうです。
日待とは
日待とは、日没から人々が集まり、徹夜で日の出を待つという行事のようです。月待
「月待」という行事もあり、近くの「浜神明社」には、天正17年(1589年)の月待供養碑があります。参考記事>瑞穂区内の旧東海道と史跡
知多郡新道の道標
境内には、「右知多郡新道」「左江戸道」と彫られた道標があります。道標は明治21年建立とのことです。

江戸道は東海道で、知多郡新道は不明です。名鉄常滑線と同じようなルートの道でしょうか。
伝馬2丁目の熱田社
伝馬2丁目に熱田社があります。この場所は、かつては羽城町という地名で、近くには後述の加藤図書助の屋敷がありました。

犬山城主で尾張藩付家老の成瀬氏が1713年に勧請したとのことです。
図書公園の中にあり、こんじんまりとした雰囲気の境内です。

鈴之御前社
鈴之御前社(れいのみまえしゃ)は、熱田神宮の境外末社です。祭神は天鈿女命(アメノウズメ)となっています。
かつては精進川が鈴之御前社の近くを流れていて、熱田神宮の参拝者は、この社で禊をしてから参拝していたとのことです。

かつては笹社の場所にあった
古地図によると、鈴之御前社はかつてはブックオフ熱田の近くにありました。 戦後になって、現在地に移転したそうです。こちらの解説によると、さらに以前は、現在の笹社の場所にあった、とのことです。
笹社の祭神は、鈴之御前社と同じくアメノウズメとなっています。
徳川家康幼時幽居地跡
松平竹千代(徳川家康)は、六歳の頃、熱田の豪族・加藤図書助順盛の屋敷に、一年間幽閉されていまいた。 その後、竹千代は、織田家の万松寺でも一年間幽閉され、織田信長と対面した可能性がある、とのことです。
羽城
熱田の豪族・加藤氏は精進川の川沿いに「羽城」という堀に囲まれた城郭に居住していました。 昭和の時代まで、羽城という地名が残っていましたが、現在は熱田区伝馬二丁目に編入されています。
加藤氏の屋敷跡は、現在はコインパーキングになっていて、面影はありません。
加藤図書助順盛
加藤図書助順盛は、熱田の豪族です。織田信秀の命令によって竹千代を預かった後も、加藤図書助順盛の名前が歴史に顔が出てきます。
桶狭間合戦の際は、織田信長に協力しています。織田信長が熱田神宮で戦勝祈願した時、信長は加藤順盛を呼んで酌をさせて、「この戦に勝とう(加藤)」と言ったそうです。
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