東海道と美濃路の分岐点
旧東海道を北西に進んでいくと、T字路になります。南に進むと、七里の渡し、北に進むと熱田神宮があります。
江戸時代から、この場所は、東海道と美濃路(佐屋路)の分岐点でした。
現在も史跡が残っています。
周辺の史跡
- 東海道道標
- 焙烙(ほうろく)地蔵
- 上知我麻神社(源太夫社)跡地
東海道道標
東海道と美濃路(佐屋路)の分岐点に、東海道道標が2本ありました。現在でも、2本とも残っています。こちらの東海道道標の位置は、数年前に、南東の角から北東の角に移動したのみで、建立当時(1790年)とほぼ同じです。
当時の場所は上記の看板を参照。
道標の文字
四面には、次のように刻まれています。東
北 さやつしま(佐屋津島)同 みのち(美濃路) 道
南
寛政二庚戌年西
東 江戸かいとう北 なこやきそ道
北
南 京いせ七里の渡し是より北あつた御本社貳丁 道
熱田神宮へ2丁(218m)の距離にある、という意味です。
もう一本の東海道道標
東海道道標はもう一本あります。北東の角にあったものを、東側に10メートルほど移動した民家の前に移動させています。 もう一本の東海道道標は、1758年の建立で、同じ文字とのこと。
戦災によって破損したものを修復したそうです。
焙烙(ほうろく)地蔵
解説によると、その昔、この焙烙地蔵は、現在の知立市重原の草むらの中で倒れていて、焙烙売りの商人が熱田まで運んで来たそうです。 その商人が置き去りにした場所に、お堂を建てたのが「焙烙地蔵」の始まりということです。焙烙(ほうろく)とは
焙烙とは、素焼きの土鍋のことで、平皿タイプや急須タイプなどがあります。 お茶、ゴマ、豆などを炒るのに用います。上知我麻神社(源太夫社)
二本の東海道道標の向かい側には、戦後まで、上知我麻神社(源太夫社)がありました。 上知我麻神社は熱田神宮の摂社です。江戸時代には「源太夫社」とも呼ばれて、知恵の文殊様としても知られました。
南区の星の宮神社
南区の星の宮神社にも上知我麻社と下知我麻社がまつられています。 これが元宮ではないか、とも言われています。参考>星の宮神社、星崎城址、石神社(星崎周辺の史跡巡り) http://nagoya-sanpo.info/article/433088857.html
上知我麻神社(源太夫社)があった場所は、ほうろく地蔵のある場所です。 空き地の一帯も、境内だったようです。
上知我麻神社(源太夫社)の場所は上記の看板に記されています。