宮の渡し(七里の渡し)周辺の史跡については、こちらの記事で紹介しています。
- 社宮司社
- 景清社
- 赤本陣跡
- 聖徳寺
- 円福寺
社宮司社(しゃぐうじしゃ)
熱田区須賀町に社宮司社(しゃぐうじしゃ)が鎮座しています。 社宮司とはミシャクジ信仰のことだと言われます。ミシャクジ信仰
ミシャクジ信仰の正体は定かではなく、大和民族に対する先住民の信仰だったとも言われます。「ミシャグジ」の当て字には、社宮司、石神、三狐、三宮、斉宮社など実に様々です。
石やしゃもじを奉納
ミシャクジ信仰では、石やしゃもじを奉納するのが特徴です。 須賀町の社宮司社では、猿田彦命、岐之神、八衢彦神、八衢媛神を祀っており、無底の柄杓子を供えるとのことです。立て看板によると、社宮司社は、昭和27年までは、景清社の近くに鎮座していたそうです。
景清社
景清社は、平景清(藤原景清)を祀る神社です。 ひつまぶしで有名な「蓬莱軒」のすぐ近くにあります。景清とは
平景清(藤原景清)は、平家に仕えたため、俗に平景清と呼ばれています。 実際は藤原氏です。源平合戦で活躍して、「平家物語」でも有名な存在です。景清伝説
日本各地に景清伝説が残っています。熱田にも、平家没落後に景清が隠れ住んだ、という伝説があります。1182年の創建
この伝説が景清社の由緒となっています。 景清社は1182年の創建で、景清の居住跡地に祀ったとのことです。 もっとも、源平合戦は1185年ですので、1182年の創建というのはいささか不都合かもしれません。芭蕉も訪問
松尾芭蕉は名古屋訪問の際、熱田区の景清社と誓願寺を訪れたとのことです。 ということは景清社の創建はかなり古いといえます。名刀・あざ丸
熱田神宮が所蔵する名刀・あざ丸は、もともと景清の佩刀であり、景清が熱田神宮に奉納したと伝えられています。赤本陣跡
本陣とは、 参勤交代の大名や、旗本、勅使などが宿泊する場所のことです。一般人は宿泊できませんでした。赤本陣と白本陣
宮宿には、本陣が二軒あり、赤本陣と白本陣と呼んで区別していました。赤本陣跡は、ひつまぶしの「蓬莱軒」の駐車場となっています。 立て札があるのみです。
白本陣
白本陣も、赤本陣と同じく、遺構は残っておらず、現在では場所が不明とのことです。円福寺
円福寺は、名古屋ではめずらしい時宗の寺院です。 熱田神宮南の交差点沿いにあります。足利尊氏
円福寺は、足利尊氏が大規模な寄進を行い、境内や堂宇が整ったとのことです。尾張名所図会に境内の様子が描かれています。
聖徳寺
聖徳寺は、名の通り、聖徳太子像が祀られています。 聖徳太子立像(孝養像)は、県指定文化財で、1333年のものです。孝養太子
聖徳太子は、父用明天皇の病気平癒を祈願したことで、孝養太子の名があります。由来
聖徳太子の像は、その昔、漁師の網に引っかかって見つかったとのことです。 その太子像を祀ったことが聖徳寺建立といわれます。蓬莱の由来
熱田神宮には蓬莱伝説があり、蓬莱宮とも呼ばれていました。 また、名古屋を蓬左(ほうさ)と称したのは、「蓬莱宮」の左に位置するためです。東方の、仙人が住む島
「蓬莱」とは古代中国の伝説で、東方にあり、仙人が住むという島(東方の三神山)のことです。 秦の始皇帝が、蓬莱を探すために、徐福を派遣したと言われます。徐福伝説
徐福が到着したと言われる場所が日本に多くあり、熱田もその一つです。 熱田の地は、かつて海に突き出した岬になっていて、島のように見えたのではないか、とのことです。海抜7メートルの地図を見ると、当時の地形が浮かび上がります。
断夫山古墳
他にも、熱田区の断夫山古墳が、中国神話で語られる「蓬莱山」を模しているからではないか、とも考えられます。蓬莱軒の店名
ひつまぶしで有名な蓬莱軒の店名は、この伝承に由来するとのことです。関連記事