投稿日:2020年04月11日

緑区と豊明市にまたがって広がる桶狭間地域は、合戦にゆかりのある史跡があちこちに残っています。

豊明市と緑区の2つの古戦場跡地

桶狭間古戦場跡地とされる場所は、豊明市と緑区の2つがあります。
  • 緑区の「桶狭間古戦場公園」
  • 豊明市の「桶狭間古戦場跡地」
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このページでは、主に豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」について紹介しています。
緑区についてはこちら>桶狭間の合戦と古戦場

有松に近い観光スポット

桶狭間地区は、江戸時代の街並みが残る有松地区と近いため、セットで観光することができます。有松は、名古屋の代表的な伝統工芸品である有松絞りの生産地として全国に知られます。 続きを読む
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桶狭間の合戦の概略

27歳の織田信長が尾張地域を制覇してまもない永禄三年(1560年)の6月12日(※旧暦では5月19日になります)。駿府の有力武将の今川義元が尾張に向かって進軍してきました。

今川勢力は豊明市まで達していた

この頃、三河以西の今川勢力は、沓掛城(愛知県豊明市沓掛町)にまで達していました。織田信長の立てこもる清洲城(愛知県清須市一場)まで、ほとんど目と鼻の先といえます。

徳川家康が火蓋を切る

緑区の大高城には、今川方についている松平元康(徳川家康)がおり、その家康の勢力によって、信長方の丸根砦、鷲津砦が落とされます。これによって桶狭間の合戦と呼ばれる戦いの火蓋が切られます。

敦盛を舞い、清洲城を出る

清洲城の織田信長は、今川義元の接近に無視を決め込んでいました。夜明け前、砦の陥落の報告を聞くと、幸若舞「敦盛」を舞い、出陣の身支度を整え、200人とも言われるわずかな軍勢とともに清洲城を出陣しました。
作戦会議では、家臣団は篭城を主張したとのことですが、信長はこれを無視しました。

10倍の兵力差

向かう先は、今川義元の本陣のある桶狭間ですが、その前に、祈願をしつつ軍勢を集めるために熱田神宮へ寄っています。今川義元の兵力は25000〜45000と諸説あります。一方、織田信長は清洲城を出たときにはわずかな軍勢しか従っておらず、最終的に善照寺砦にたどり着いたときには2000〜3000の兵力だったといわれます。
今川義元は、丸根砦、鷲津砦が陥落したことに気をよくしたのか、「田楽狭間」と呼ばれる場所で休息を取ったとのことです。梅雨の雨が強まったところで、信長の軍勢が急襲をかけました。 以上が桶狭間の合戦の背景の概略です。 続きを読む
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