写真付きで、市内の歴史や名所などを紹介していく予定です。
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名古屋市天白区在住。ご連絡はこちら。ブログへのコメントもお気軽にどうぞ。
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名古屋市天白区在住。呼続周辺の史跡
山崎川から笠寺までの東海道沿い
瑞穂区の山崎川から南区の笠寺付近にかけての旧東海道沿いには、興味深い史跡が並んでいます。史跡スポット
地名の由来
鳥栖の地名は、かつてあったとされる鳥栖城から来ています。鳥栖城の跡は、南区鳥栖町二丁目にある成道寺というお寺となっています。 続きを読む豊明市と緑区の2つの古戦場跡地
桶狭間古戦場跡地とされる場所は、豊明市と緑区の2つがあります。有松に近い観光スポット
桶狭間地区は、江戸時代の街並みが残る有松地区と近いため、セットで観光することができます。有松は、名古屋の代表的な伝統工芸品である有松絞りの生産地として全国に知られます。桶狭間の合戦の概略
今川勢力は豊明市まで達していた
この頃、三河以西の今川勢力は、沓掛城(愛知県豊明市沓掛町)にまで達していました。織田信長の立てこもる清洲城(愛知県清須市一場)まで、ほとんど目と鼻の先といえます。徳川家康が火蓋を切る
緑区の大高城には、今川方についている松平元康(徳川家康)がおり、その家康の勢力によって、信長方の丸根砦、鷲津砦が落とされます。これによって桶狭間の合戦と呼ばれる戦いの火蓋が切られます。敦盛を舞い、清洲城を出る
清洲城の織田信長は、今川義元の接近に無視を決め込んでいました。夜明け前、砦の陥落の報告を聞くと、幸若舞「敦盛」を舞い、出陣の身支度を整え、200人とも言われるわずかな軍勢とともに清洲城を出陣しました。10倍の兵力差
向かう先は、今川義元の本陣のある桶狭間ですが、その前に、祈願をしつつ軍勢を集めるために熱田神宮へ寄っています。今川義元の兵力は25000〜45000と諸説あります。一方、織田信長は清洲城を出たときにはわずかな軍勢しか従っておらず、最終的に善照寺砦にたどり着いたときには2000〜3000の兵力だったといわれます。有松絞りまつり
「有松絞りまつり」では、有松絞りの即売会など様々なイベントが実施されます。 毎年10万人近くの大勢の観光客で賑わいます。2020年の日程
毎年6月の第一土曜日と日曜日に開催されます。 2020年は、例年通りで行けば、6月6日(土)、7日(日)となりますが、新型コロナの影響で変更もあるかもしれません。古い町並みが残る
名古屋市緑区有松町は、名古屋市内でも珍しく、旧東海道沿いの古い町並みが残る地区です。町並み保存地区に指定されています。1608年に尾張藩によって開かれる
有松の町は、旧東海道沿いにあります。 もともとは人の住まない地域でしたが、1608年に尾張藩によって、有松村がつくられました。 しかし農耕地が少なかったため、有松・鳴海絞りが新産業として興されました。有松、桶狭間地区
桶狭間の戦いが行われた桶狭間地区も、有松町に隣接しています。 有松・桶狭間の距離は一キロほどありますが、バスがあり、セットでまとめて観光を楽しめます。 続きを読むリンク集